日本の「元祖・都」シリーズ07
私たちは小学校の歴史で「大和朝廷」を学んでいますが、卑弥呼が死去し一定期間の内乱を過ぎた3世紀以降のこととして認識されていて、まぁそのあたりは既に奈良県に中心地が合ったのだろうと思われます。
このブログで書いているのは、卑弥呼以前、つまり「大和朝廷」とか「ヤマト王権」と言われる、その以前の「都」のことなのですが、いずれにしても「邪馬台国」が「大和朝廷」に受け継がれていったか、あるいは吸収合併、侵略、といったような、とにかく結果的に併合していったことはほぼ間違いないのだろう、と思われます。
したがって、あえて「都」と書くことで「邪馬台国」とか「王朝」という書き方はしていません。ただし神武の系譜を話の発端としていますので、「天皇家の祖先」の「都」という意味合いは持たせています。
ただし、「天皇」という呼び方が成立するのは7世紀以降とされており、それ以前は「倭国王」だったと考えられているようですので、ここでは「王」という書き方で表現したいと思います。
また皇室関係の文書や資料、陵墓の管理を行うのが書陵部、施設管理が管理部、となっています。また神武の父ウガヤの墓「吾平山上陵」を管理する事務所を「吾平部」、その父ホオリの墓「高屋山上陵」の管理事務所が「高屋部」、そのまた父のニニギの墓「可愛山陵」の管理事務所が「可愛部」と、ここでも「部」が使用されています。さらにその事務所の管理に当たっているのは内閣府事務官で「陵墓守部」と呼ばれています。
古墳時代、ヤマト王権は耕作した者を「田部(たべ)」と呼んでいました。私有民のことは「民部」、最初の諜報機関と言われたのが「馬飼部」、城を作るときの日よけ等を作るのが「蔀部(しとみべ)」、専属の高級大工が「従者部(しとりべ)」、律令制における役職が「刑部(おさかべ)」、訴訟を職務とした機関が「解部 (ときべ)」、現在でも使われる「語部(かたりべ)」などもあり、これらは「部民制(べみんせい)」と呼ばれ、王権への従属・奉仕の体制、朝廷の仕事分掌の体制でした。このほか海部(あまべ)・錦織部(にしごりべ)・土師部(はじべ)・須恵部(すえべ)・弓削部(ゆげべ)・麻績部(おみべ)・渡部(わたりべ)・犬養部(いぬかいべ)・鳥飼部なども。
有名な巨勢部・尾張部・大伴部・蘇我部もあり、特に兵器の製造・管理をしていたのが「物部(もののべ)」でした。
さて、都城市には「蔀(しとみ)」さんが一軒だけあります。安久小のとなりで商店をされています。また、安久から豊満、上長飯の一帯は天然の用水路といってもよい水はけに優れた土地が広がっていて、「田辺(たべ)」と呼ばれています。
1026年頃大宰府の役人であった平季基が日向国島津院を開発し、島津荘が始まった、とされています。島津荘は、日本最大の大荘園といわれており、該当するのは早水町・郡元町・祝吉町(いわゆる祝吉御所)だとされていますが、安久町の堀之内御所から移ったともされているし、神柱大明神(現在の神柱神社)を作ったのは安久町のとなりの梅北町でしたから、荘園は現在の中郷地域一帯だったのではないでしょうか。
日本最大の大荘園の土台は、やはり古くから開発が進んでいたことと、「都」として栄えていた経緯がモノをいったと予想するのは容易にできます。
この安久を中心とした一帯には、まだまだたくさんの謎があるようです。
あまりに度が過ぎた、PRにならないPRがまかり通ろうとしている話。都シリーズ01
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