市民の役割を勘違いしていたかもしれない件。
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最終更新日:2014/04/05
ブログ
ここのところ何人かの人に、フェイスブックの記事消えてない?的なことをよく言われております。いい加減説明しとかないといけないな、と。
実はこのブログはフェイスブックのボクの個人アカウント、「つぶやきいも」のFBページ、シティエフエム都城のアカウントに自動的に流し込まれるように設定されているのですが、局のアカウントの場合、政治色が強く「批判」めいている記事の場合は削除するという方針となっております。これはボク自身了解していることですので、誰かのいやがらせ等ではございません。
局は第三セクターであり、霧島酒造、江夏石油がそれぞれ筆頭株主、第3位株主がBTVケーブルテレビであり、公的立場の強い会社でありますので、主張の強い意見を言うべきでないという判断があります。また中央の大手メディアと違い、あくまでコミュニティFMですので、報道の自由等を謳う立場でもありません。あしからずご理解くださいませ。
また、逆に「あんなこと書いていいのか?」とか「いい加減やめとけ!」的なアドバイスも多々頂くのですが、ご心配かけて申し訳ありません。
ボクが書いている記事が、いわゆる「行政批判」だ、と認識されていることは重々承知しておりますが、ボク個人的にはむしろ「愛情」だと考えています。あるいは偉そうですが「アドバイス」という意味合いもあります。
都城市は、ボクが生まれ、育ち、酸いも甘いも経験させて頂いた「ふるさと」であり、心から愛してやまない土地です。その街を管理して頂いている役所の皆さんに対しての微力ながら「助太刀」しているつもりであります。
キツい書き方をする場合もありますが愛あればこそでありますし、実際、役所に勤務しているボクの友人たちもほとんどが好意的に捉えてくれています。
特にボクは市長の池田氏をかなり支持しています(あくまで個人に、であり支持政党などは関係なく)。大蔵省、省庁再編後の金融庁、外務省、都城市副市長、財務省と渡りあるいたキャリアであり、過去の市長とはレベルもラベルも違います。都城市政史上もっとも革新的(ボク比)だと思っています。同窓でもありますしね。
何度かお会いしたこともありますが、市民を交えた意見交換会で、意見や議論の無い市民に「情けない」と喝を入れた市長がかつていたでしょうか。
就任当時の某誌インタビューで、市長は「都城の基幹産業である農林畜産業の振興」、「都城の地の利を活かす」(都城志布志道路の前倒しで既に有限実行)、「次世代の子どもたちの人材育成」「市立図書館や小中学校図書館の図書充実、小学校図書館への図書館サポーター配置」「中心市街地の活性化」等を述べており、いずれも今回の予算案に盛り込まれていますが、ボクがこの数日書いた記事(PR政策、18年度策定のビジョン)と関連するものはありません。
市長就任以前から引き摺られているものがいくつかあり、それは外野(市民や市役所職員でない誰か)のスタンドプレー的要素が絡んでいるのではないか、と考えられます。それがどこかの金持ちなのか権力者が、巧みにしがらみや軋轢を利用しているのかもしれません。
「批判」と言われればそうかも知れませんが、現市政はまだ1年、市職員だって「人の子」ですから、そのあたりをピンポイントで責めるつもりもありません。
ボクが言いたいのは、悪しき慣習や根拠の薄い慣例を排除し、前例のないことを恐れて欲しくない、ということです。現在、市民の意思を反映させる手立ては、パブリックコメントや市民相談室程度しかなく、それも過去の例を見ると「反映」はほとんどありません。それは提案が圧倒的に少ないからです。
どうやら私たちは勘違いしているようです。
武雄市のスタバ図書館ができた当時、秘書広報課に電話して「それをどう思うか、導入する意思があるか」と聞いたことがあります。そのときの回答は「私たちはその立場にありません、むしろご提案を頂きたい。」でした。
また一方である市職員に、「考える気はあるのか」と問うたところ、「積極的な職員は多いが、部課でほとんどが潰され、通ったとしても副市長以前で消えるのがほとんど。」とのことでした。
市長や議員を選挙で選ぶことが「反映」だと言われるかもしれませんが、市職員や市長、議員は「アイデアを出す」のが仕事ではありません。それは市民の役割です。市長はまとめ、牽引し、市職員はそれを遂行し、議員は問題を抽出し正す、というそれぞれの仕事があります。
アンケートに答えたから「意思表明している」と思うのは間違いです。アンケートはほとんどが選択方式ですから、その中のどれかを選んでいるに過ぎず、ほとんどの市民は自分のニーズを言葉にすることに慣れていません。文句を言おうものなら「代替案を出せ」と言われ、いつの間にか説き伏せられてしまう。
ワークショップや住民協議会もほぼ同じで、無作為(あるいは作為的)に選ばれた人たちが違和感の中で参加し、あらかじめ用意された選択肢の中で議論のようなポーズをとらされ、あたかも市民の意見を取り入れた感を演出する、という一連の古い慣習が形骸化しているだけなんです。
「もっと意見を言おう」などと言うつもりはありません。なぜならそれはできる人とそうでない人がいるからです。問題は「できない人」がどうすべきか、だと思うのです。代弁者を見つけるのです。そしてその代弁者に拙くても構わないから思いの丈を伝え、そして何より暮らしを管理している行政に興味を持つことだと思います。お近くの議員さんでも市職員でも構いません。言わないと「伝わらない」のです。
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