入校者歓迎!
公開日:
:
最終更新日:2014/04/09
都城愛
パラグアイ戦、残念でした。バンドの練習日だったけど、全会一致で延期して観戦に望みましたが思い届かず。
でも、PKは運だし、試合は負けてねーんだから、胸張って帰ってきて欲しいすね。
本日は研修生、心喜くんのレポートから。
>多分、こちらの方は、だれでも知っている事だと思いますが、
>北郷から、島津とどうして名前が変わったのですか?
非常にいい質問ですね。多分知ってる人は少ないと思いますよ。
北郷(ほんごうし)は、元々は「島津姓」なんです。島津宗家4代当主島津忠宗には、7人の男子がいて、六男の資忠が都城一帯を治めることになり、その時の郷名にちなみ、「北郷」を名乗りだしたわけです。
他の兄弟も、それぞれの国を治め始める際に、姓を変えています。長男貞久はそのまま島津宗家を継いで5代となった他、忠氏は「和泉」姓、忠光は「佐多」 姓、時久は「新納」姓、資久は「樺山」姓、末っ子の久泰は「石坂」姓と、それぞれの領主の地名にちなみ、氏族の「始祖」となったわけです。
その後、江戸時代に入ってしばらくしてから、宗家の命令で「島津」姓に戻した、ということですな。
しかしながら、約300年に渡り「北郷」の家系は広がりましたので、随分と末端まで北郷さんがいました。日清戦争や大東亜戦争の出兵名簿を見ると、隊長クラスはほとんど「北郷さん」です。
勿論、今でも市内には北郷さんがいて、要職についてる人がいます。
実は本家の島津氏は結構な大物でして、越前、信濃、駿河、若狭、近江に分派して領主を生んでいるんですな。だから北郷氏を都城島津氏と言うように、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、江州島津氏と、全国に島津氏はいるわけですなぁ、すごいですねぇ。
実はさらに面白い話があって、島津初代の忠久は、島津姓を名乗るまでは惟宗氏(これむねうじ)で、惟宗氏は秦氏の子孫です。秦氏はその名が示すとおり、秦の始皇帝の末裔と言われているんですね。つまり渡来民族ということです。ところが、忠久は父・惟宗広言(歌人)の実子ではなく、養子説が強いようなんです。じゃ誰の子?となりますが、ナント!源頼朝だと言われているんですね。つまり源氏ですよ。てこたぁ、あの義経は「おじさん」てことになります。頼朝は妻・北条政子以外にも前妻、妾が数人いたようで、母親が誰かはわからないみたいです。
島津家が秦氏の流れか、源氏の流れかで随分イメージも変わりますからねぇ。
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Comment
鉄板鍋の心喜(ちりとり鍋専門店)
2010/07/01 20:48
ありがとうございます。パソコンの調子が悪くすぐに返事が出来ませんでしたよくわかりました(^^)